式内 名草神社
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概 要
社号 式内社 但馬国養父郡 名草神社
読み 古 ナクサ、現 なぐさ
所在地 兵庫県養父市八鹿町石原1755-6
旧地名 但馬国養父郡遠佐(ヲサ)郷
御祭神 名草彦命(ナグサヒコノミコト)
配祀神 日本武尊 天御中主神 御祖神 高皇産靈神 比売神 神皇産霊神
配祀 天御中主神 高御産霊神 神御産霊神 日本武尊 御祖神 比賣神
あるいは 天御中主神 高御産霊神 神御産霊神 五十猛神 大屋津姫神 抓津姫神
『国司文書別記 郷名記抄』
大名草彦命・天御中主神・高御産霊神・神御産霊神・大屋津彦命・大屋津姫命・裙津姫命*
*裙…読み 音クン、訓も
[註]この当時(十世紀)としては、天御中主神をはじめとする造化三神を祀る神社は少ない。すなわち当社のごときは異例に属す。が、この神社の由緒のある大屋彦・姫両命と裙津姫命を祀るのは、植樹・栽培上当然のこと。裙津姫は抓津姫の当て字である。例祭日 7月18日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
養父郡(ヤフ・やぶ):30座(大3座・小27座)
近代社格制度 旧県社
創建 本殿 宝暦4年(1754)
本殿様式 入母屋造 千鳥破風付
境内摂社(祭神)
稲荷神社・愛宕神社・八坂神社
文化財
三重塔 国指定文化財 明治37年
名草神社本殿・拝殿 宝暦4年(1754年) 国指定文化財 平成22年
一口メモ
妙見山は中学生の時に一度家族で徒歩で登ったきりだった。(2010年5月29日)それ以来40年ぶり。標高800mの位置にあり、車でも何とも遠い。これで2度めだが、三重塔までで2013年8月16日改めて名草神社へ。
歴史・由緒等
由 緒
敏達天皇14年(585)、養父郡司高野直夫幡彦、紀伊国名草より来り。民の悪疫に苦しむを憐れみて其祖神名草彦命以下の諸神を祀りて之に居りしに創まると伝う。延喜式の制小社に列し、中古社運隆盛を極め仏者に習合して真言帝釈寺当社の別当となり、祭神中に天御中主神あるによりて7座の祭神を北辰7星に象りて両部神道を構成し、社名を妙見宮と改め、真言特有の加持祈祷を以て信仰を得る。
天正年間(1573~1593)、豊臣秀吉悉く社領を没収し、江戸時代徳川将軍より朱印領30石を寄進して社頭の維持漸く安きを得たり。
明治維新までは、出石藩主仙石侯及び村岡藩主山名侯の祈願所となり、摂家一條家よりも屡々代参の儀ありき。
寛延4年(1751)本殿を修造し、宝暦2年(1752)日光東照宮を模して改築に着手し、同4年(1754)之を竣工。
元禄元年(1688)拝殿を改築し翌年(1689)竣工。
明治維新社名を名草神社と復称し、明治6年(1873)村社に列し、大正11年(1922)、県社に昇格。
「兵庫県神社庁」
古くから五穀豊穣を祈る農民の信仰も集めてきた。拝殿や本殿は、見事なもので、龍や獅子、鳳凰や力童子などの精巧な彫刻も見られます。兵庫県を代表する神社建築ともいわれ、平成22年4月、旧日光院本殿および拝殿(現名草神社) 国指定重要文化財に指定された。
妙見山は標高1139m、名草神社本殿は、妙見の集落では最高所で標高800mの位置にある。宝暦4年(1754)の建築で、山陰地方を代表する大型建築。豪華で豊かな彫刻や彩色で飾られている。規模は、正面が9間(17.6m)、側面が5間(9m)。本殿正面の景観は、栃木県日光東照宮や京都市北野天満宮などの権現造りの本殿と共通している。構造は本殿の縁の外側周囲に板戸や障子戸を建てて外陣とし、ソの内側と内々側に分けている。
本殿を建設するために、但馬内だけではなく因幡、播磨、美作、丹後、丹波の6カ国から寄付を募った。この資金を集めたのが妙見村の人々です。御師(おし)という杜人(神職)で、妙見社御牛王(ごおう)と書いた御札を諸国に配って多くの信者を集めた。
拝殿は元禄2年(1689)完成、中央がツウロになった割拝殿という全国的にも希少な形式のもので、高い価値がある。
三重塔は標高750mの位置にあり、妙見では三重塔の前が広いことから「塔平(とうなる)」と呼ぶ。九輪の先端までの高さは23.9m、三層目までの高さは16.8m。屋根は薄い杉板を重ねて作った柿葺(こけらぶき)。大永7年(1527)、出雲国を治めた戦国大名、尼子経久が願主となって現在の島根県出雲大社に建立したもの。
寛文2年(1662)、出雲大社の境内地を拡張し、現在の本殿建設が始まった。これを出雲大社の寛文御造営という。この時、全国を探しても本殿に使う大きな材木がなかったことから、名草神社周辺にあった御神木の妙見杉が、出雲大社本殿のご用材として提供された。そのお礼に、寛文5年(1665年)に出雲大社にあった三重塔が、但馬の妙見山に寄進されたもの。室町時代の建築物で国指定重要文化財であったが、昭和59年2月に豪雪で破損した。このため所有者である名草神社が事業主となって解体修理を実施し、昭和62年10月、創建当時の鮮やかな丹塗りの姿に修復された。
塔の3層目軒下の4隅には「見ざる・言わざる・聞かざる」を示した猿の彫刻がある。最後の一匹は「思わざる」ではないかと考えられている。
境内には今も樹齢250年から400年とされる妙見杉の巨木が繁っています。
妙見というのは、北極星(北辰)や北斗七星(北斗)を神仏として祀るもので、武家の守護神として、山名宗全など多くの武家の信仰を集めました。千葉周作の北辰一刀流も妙見信仰の表れです。妙見山は、山陰随一の妙見信仰の大本山として栄え、福島県の相馬妙見、熊本県の八代妙見と並んで、日本三妙見のひとつとされ、「妙見さん」と呼ばれ人々に親しまれています。
『国司文書 但馬故事記』第三巻・養父郡故事記
人皇三十代敏達天皇の五年夏六月
若足尼(ワカスクネ)命の甥・高野直夫幡彦(タカノアタエ・・・)を以って、夜夫郡司と為す。高野直夫幡彦は紀国名草郡の人なり。この御代 仏を信じ、国の祭を軽んず。これに於いてか、諸国に悪疫流行し、穀実らず、人多(サワ)に死し、民これに苦しむ。
天皇詔して、神祇(ジンギ)を崇敬せしめ給う。
郡司・高野直夫幡彦は、この災害を攘(ハラ)わんと欲し、十四年夏五月、石原山に祀らんと、草莱(ソウライ)*5を拓き、
天御中主神・高皇産霊(タカミムスビ)神・神産霊(カミムスビ)神・五十猛(イソタケル)神(又は大屋津彦命)・大屋津姫神・抓津姫(ツマツヒメ)神*6、及び
己が祖・大名草彦命(おおよそ以上七座)を祀る。(式内 名草神社:養父市八鹿町石原)
五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神は素戔嗚(スサノオ)神の御子、大名草彦命は神産霊神の御子なり。*5 草莱 雑草の茂った土地。荒れはてた地。また、草深い田舎。
*6 大屋津姫神(オオヤツヒメ)・抓津姫神(ツマツヒメ)は、日本神話に登場する樹木の女神。『日本書紀』の一書では父神・素盞嗚尊、兄神・五十猛命と記されている。姉神のオオヤツヒメは大屋都比賣神、大屋津姫命、妹神のツマツヒメは抓津姫神、抓津姫命、都麻都比賣命、爪津姫神、枛津姫神などと表記する。
境内・社叢
妙見山から八鹿方面 社号標
参道 参道入口境内社
歌碑
三重塔(国指定重文) 台風19号で倒壊した夫婦杉
案内板
名草神社への立派な石段
大きな神社にはある馬はここで下馬せよという石碑
手水舎が見当たらなかった。見落としたのかも知れないが、これがその礎石あとではないだろうか。
割拝殿入母屋造
名草神社拝殿 案内板
拝殿絵馬
狛犬
社殿(本殿)
境内社
地名・地誌
名草山
『国司文書別記 郷名記抄』
名草神社鎮座の地なり。大名草彦命・天御中主神・高御産霊神・神御産霊神・大屋津彦命・大屋津姫命・裙津姫命を斎きまつる。
高天原広野姫天皇(持統)の御世、詔を奉じ、杉樹を栽植せり。
地 図
交通アクセス・周辺情報
高野山真言宗 但馬妙見 日光院
明治以前は当院を石原山帝釈寺日光院と称しましたが、明治時代に山号を改め寺号を撤して妙見山日光院となりました。石原山とは現寺域に対する総称で、いわゆる妙見山(石原)とは全て日光院の旧境内であります。当院は飛鳥時代敏達天皇(572年)のころ、日光慶重の御開創に始まります。第二世慶覚、第三世覚重を経て、第四世重明の時代に本尊妙見堂及び、本地仏薬師瑠璃光如来を本尊とする薬師堂が、この地(石原)に建立されました。
我が国において妙見大菩薩の霊場は数多くありますが、当山こと但馬国の石原妙見(略して但馬妙見)は霊符縁起によりますと、下総国の相馬妙見、肥後国の八代妙見と共に日本三妙見の一つとされています。中国近畿地方一帯の妙見尊を奉祭する寺社の総本家として多くの人々の信仰を集めていました。
このころ当院は盛隆を極め、塔中に成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊の十カ寺を有し、別に求聞持堂、護摩堂、仁王門など全備し、また、西方五十丁山上に、奥の院(現在の名草神社の地)を有し、石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場でありました。まさに日域伽藍開基記に示すが如くであります。霊符縁起に「日本三妙見とは但馬国石原妙見、肥後国八代妙見、下総国相馬妙見をいう」と伝えられていることは、誠に所以あるといわねばならないでしょう。
即ち、当山は中国近畿地方一帯の妙見尊を奉祭する寺社の総本家でありますが、いくつか例をあげますと、島根県石見国邑智郡太詔刀命神社の伝記に「仁平四年初卯日(1153年)但馬国妙見山より妙見大菩薩勧請・・云々」とあり、また和歌山県伊都郡四郷村妙見神社、兵庫県多紀郡北河内町天台宗弘誓寺妙栄講本尊、また能勢妙見もその一つと伝えられています。またその霊名は遠く遥かに大陸までつたわり、明朝の嘉靖年間(1530年)に菊英伏なる篤信者は当山に妙見尊の画像を寄進しています。いわゆる唐画妙見像のことです。
鎌倉時代以降、妙見大菩薩に対して特に武門将士の信仰が盛んとなり「日光院文書」(県指定)として伝わる鎌倉室町時代の古文書百数十通のなか、文安二年(1445年)の山名宗全公、山名四天王等の祈願状、寄進状等からも明らかなように、武家をはじめとする諸国信者の寄進が相次ぎ、因幡、播州、但馬、丹後、丹波の五郡にわたって荘園を有し一千町歩の妙見山といわれ、成就院をはじめとする塔中寺院は十坊を数えました。まさに一山隆盛を極めたのです。
しかしながら天正五年の羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、妙見尊本殿、薬師本堂のみを残し灰燼と帰し寺門一時衰微しました。この間、初代から第三十四世に至ります。ここに於いて高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨は、当院第三十五世を兼務し復興に尽力され、ついで其の弟子の快遍阿闍梨を第三十六世として大いに興隆されました。寛永九年(1632年)には、奥の院に妙見大菩薩を奉持して登り日光院を妙見山の山腹に移転復興されました。(現名草神社の本殿は、日光院第四十世宝潤によって宝暦四年に完成されました。そこが日光院本殿であった証拠なのです。)
旧域には成就院のみを復興して旧伽藍域の経営にあたられました。そして慶安元年(1648年)九月十七日には徳川三代将軍家光公より御朱印地三十石を賜わりました。まさに旭日昇天の盛運をむかえたのです。後述しますが、現在国指定重文に指定されている妙見三重塔は、この快遍時代に出雲大社より日光院に移転建立されたことが、出雲大社所蔵の「寛文御造営日記」に記録されています。つまり、お寺である日光院に三重塔が贈られたのです。
また、慈性法親王は「妙見宮」と題する巨額を日光院に寄進されました。これは妙見大菩薩の霊場である日光院を「妙見宮」と称したためです。この額は、現在も日光院の拝殿に掲げてあります。全国の妙見信仰の霊場は同じように妙見宮といわれていました。このように徳川時代には雄大な妙見全山を伽藍とする山陰随一の名刹となりました。日光院
http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page102.html
引用:養父市
参 考
『養父市まちの文化財』養父市教育委員会・他
但馬の神社と歴史三部作
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